目の前、約7メートル先に犬が歩いてる。休日のその日、僕は片手に少し大きめのレジ袋を持ってる。その中には小ぶりな箱に包まれたケーキが入ってる。自分も食べるけど、別段、自分のために買った物じゃない。
件のパートナと一緒に食べるために近くのケーキ屋さんへと行き、一つはモンブランを、もう一つはチーズケーキを買って帰る途中。ふと前を見ると近所に住むお宅のご主人が犬を散歩させていた。朝夕とそこのご主人が飼ってる犬を散歩させてるのは以前から知ってはいました。小柄な茶系の柴犬のなんとか君。その家を通ると大抵その犬がいてこちらを見てる。その犬はどうやら牡犬で普段は決して吠えない子だ。でも、僕が興味を持って近づきその家の敷地付近の、ある距離にまで踏み込むと…。
「ワン!」と一声、吠える。続けて吠える訳でもなく、殊更、大きな吠え声でもない。でも、その叫びには「これ以上は入らないで下さい」といった明確な意思が感じられる。つまりこの子はすこぶる優秀な番犬という訳だ。
その犬がご主人と一緒に散歩をしてる。その後方、約6メートル弱。僕はあの犬が夕方の散歩に連れていって貰ってるんだな、ぐらいの思いで家路を少し早や歩きで前へと進んでいた。そして犬に少し近づいたその瞬間。
その犬、小さくもなく大型犬という訳でもない、言ってみれば中型犬の柴犬が、ふとこちらを振り向いた。あれ、後ろから人の気配を感じたのかな?まぁ、足音で気づくか。と、そんな思いで何気なくまた前に向かって歩みを進みだした。それから20歩もいかない内、前の柴犬はまた後ろを振り向いた。その表情は心なしか澄んだ目をしてこちらを真っすぐに見つめている。え、なんでまた振り向くの?たまに見かけて僕の事は初見ではない筈なのに。そう怪訝に思いながら、でもまたその柴犬は前を向きトコトコと歩きだした。そして僕も同じようにまた歩きだした。
別に大した事はないか。前の柴犬は、たまたま後ろにいた僕を二回、見ただけだ。別に他意はないさ。そう思った、いや、少しだけ不安のような物を感じた自分を諭すかのように『自分に言い聞かせた』。
そうしてまた歩き出して、また20歩ほど歩いた頃。その柴犬はまたこちらを振り向いた。「なっ!」。さすがに若干、驚いた自分は、それは信じられない事だけどほんの少し。そう、ほんの僅かに少しだけだけど…。背筋に冷や汗のような物を感じた。
怪訝に思ったのはその柴犬を連れていたご主人もそうだったらしい。普段はひたすらに前を向いて散歩を楽しみにしていた筈の犬が二度、いや、三度続けて、後ろを振り向く。そんな事は、おそらくあまり無かった事だったと思う。飼い犬のご主人も後ろに何かあるのかと思い振り向いた。と、そこにはご近所に住む若い夫婦の夫と見られる男性がレジ袋を片手に佇んでいる。それだけの光景をご主人は見て、そしてお互いに軽く会釈した。
その時、僕は思ったよ。前を行く柴犬くんは僕を見ていた訳じゃない。僕の持っていたレジ袋の中にある、ケーキを見ていた。多分、それが正解なんだと思う。
通常、犬の臭覚は人の約、一千倍らしい。体内にある臭覚を感じる細胞は人間は500万個あるのに対して、犬は二億から三億個あると言われてる。そんな豆知識は、よくある動物番組で専門家が口にしていたのを思い出したからだ。嗅球(きゅうきゅう)と呼ばれる臭覚を処理する脳の部位も人間よりも、約40倍あるらしい。以前から犬は臭覚に優れている事は知ってはいたよ。それ故に、ジャーマンシェパードやビーグル犬といった犬種の犬が、警察犬として訓練され実務に携わると言った事もなんとなく刑事ドラマなどで見て知識として知ってた。でも、まさかこんな形で、そのスペックを思い知らされるとは思ってもなかったけど。そうして僕は特に何ごともなく家に帰ってきたよ。家で待ってるパートナーにケーキの入った箱を渡し、ケーキ屋さんからの帰りの途中こんな事があったよ、と、今日の柴犬くんとのやり取りを何気なく話した。ただの取るに足らない話題として。するとパートナーは開口一番、
「えっ?何それ!めっちゃ可愛いじゃない!それってあそこのお宅のワンちゃんと、しっかりコミュニケーションしてるって事じゃない!何それ、意味わかんない!あたしも、あの子、大好きなのにぃ!」と、なんでそこまでと言うかなと思う程に、マシンガンを連射するかのように彼女はそんな言葉を僕に対してまくし立てた。
「いや、かわいいと言うより、少し不可思議なやり取りだったよ。あのワンちゃん、別に吠えるでもなく、ただ僕を、いや、今、思うと僕の手にしていたケーキを見つめて、多分、興味深々だったのかもしれない。犬がケーキを食べるかどうかは知らないけどさ」。「あっそ、別にいいけどさ。うちもその内、ピンク、飼うし!」。
と、少し前に話題にしてた、メジャーの大谷翔平選手の飼い犬、デコピンみたいなワンちゃんを飼いたい。そうすれば何故か僕が大谷翔平、的な御仁に近づけるからという、半ばシュールな彼女ならではの持論を、まだ彼女は忘れてないらしい。それはそれ、別にいいけど。とにかくまずはコーヒーの豆を挽くよ。君と今日という日を祝いたいからね。そう、今日4月1日は僕の妻でありパートナーでもある彼女の誕生日です。そのために彼女のお気に入りのケーキ屋さんまで僕が、やはり彼女のお気に入りのモンブランを買いに行ってたんです。4月1日。いわゆるエイプリールフールが彼女の誕生日なのは、別に彼女のせいでもなんでもなく、ただのそれはたまたまそうだったというだけの事です。今日、自分の出会った、少しコミカルな少し不思議な出来事もあり、今、本当に我が家に『三人目』の家族を彼女とそして僕自身のために二人で一緒に探しに行こうか。そんな思いを今度こそ本気で考え始めました。僕、以上に犬が好きな彼女に笑顔になって貰うそのために。そのプランは今は僕の胸のふちだけに密かに仕舞っています。そんな春の日の、それは小さくもあり、また大きくもある我が家の出来事です。来年のエイプリールフールまでには、多分おそらくは…。